Tuesday, June 14, 2016

オキナワへ行って、琉球をさがす、そのニ。


古い中国の書物において「琉球」と呼ばれていた奄美群島から先島諸島を含む長ーいサンゴ礁列島。15世紀に本島の尚真王という人が諸島の勢力を平定し、那覇の首里に立国したのが「琉球国」だ。その後、国家としての琉球王朝は約450年も続くのだが、その間、アジアの盟主である明に朝貢を続け、その緩やかな支配圏に入ることで守護されつつ、遠くマラッカから朝鮮、日本までの海洋交易の中継貿易地として栄えた。その後1609年に薩摩藩の侵攻を受けてからも(イクサ上手の、サツマに短期間で降伏)、中国と日本というふたつの国とのバランスをはかりつつ存続していた(ただし人々は重税に苦しんでいた)。その均衡を破ったのは明治維新後の1879年に日本が行った「琉球処分」というなんともブッソーな宣告だ。明治政府の狙いは、琉球王国を解体し、日本国に編入することで近代国家(帝国主義)のスタートを切ることだった。それが可能だったのは、当時の中国、清が欧米の侵略を受け、弱体化していたことがあった。ここに驚くべき史実を発見。日本と清は、当時の前アメリカ大統領グラントを仲介にして、琉球の分割統治案を勝手に協議、なんと調印一歩手前だったというのである(実現していたらいまの沖縄の地図はまるっきり違っていたわけだ)。具体的にはこうだ。日本側は「本島以北を日本」、「宮古・八重山を清の領土」とする2分割案。清側は「奄美以北を日本」、「本島と周辺は琉球王国として独立」させ、「宮古・八重山を清の領土」とする3分割案である。しかし、結局この問題は「棚上げ」されることになる(瀕死状態の清は北方からのロシアの脅威に、それどころではなかった)。その後、両国は日清戦争に突入し、1895年の日本の勝利によって「琉球」の時代は終わり、「オキナワ」という時代が始まることになる(結局、尖閣列島を含めた帰属の問題は棚上げのまま?)。

歴史はこれくらいにして、話を「壺屋焼」に戻そう。12世紀ころから琉球には「南蛮焼」といわれるタイやベトナムとの交易の影響を受けた瓦や瓷(かめ)が数カ所の古窯で生産されていた。そして17世紀になると薩摩から朝鮮陶工を呼び、また中国から「赤絵」の技術も導入して新しい窯場としての「壺屋焼」が誕生する。琉球王府の官窯なのだが日用品の生産も盛んで広く普及した。しかし、前述のように「琉球処分」が行われると、日本本土からの大量の陶磁器に駆逐され、「やちむん」は次第に姿を消してゆくことになる。その時期に沖縄を訪れたのが柳宗悦、濱田庄司たちだった。”目利きたち”が、この素朴で奔放でありながら、東南アジア、中国、朝鮮などの記憶を残した稀有な焼き物に瞠目したのも無理はない。おかげで沖縄の陶器は「民芸」の名でヤマトンチュの注目を浴びる。また柳は当時、日本への同化政策の一環として行われていた「琉球の方言撲滅運動」を「他県にこのような運動はない」と、反発している。一見まっとうな異議申立てだが、そこに琉球を日本の「海外県」と見ているような視線を感じてしまうのは私だけだろうか。陶芸家、大嶺さんが、濱田庄司の話のなかに、幼いながら感じた「オキナワ」というワードへの違和感の原因も、そこらへんにあったのかもしれない。

大嶺さんの故郷は、「オキナワ」ではなく「琉球」だ。日本の統治によって「万世一系」という戦時下のスローガンを強要する日本に疑問を持ったとしても不思議ではない。「やちむん」とは、異文化交流のなかで、ダイナミックな変化を受け入れざるをえなかった「琉球の独自性」の中からこそ生まれたもの。「民芸」という日本からの一方的な視線ではなく、もっと自由な「やちむん」に挑戦する大嶺さんの作品に、これからのオキナワに込めた思いを感じる。

P.S.
20年ほど前、琉球音楽研究家の照屋林助(a.k.a.テルリン)が「コザ独立国」の建国を宣言し、自身も「終身大統領」を名乗っていたことを、私は「ジョーク」のように受け取っていた。ここに訂正したい。


Sunday, June 12, 2016

オキナワへ行って、琉球をさがす、その一。

キューバに行きたいと思った。アメリカナイズされてしまう前の今なら、あのブエナビスタ・ソーシャルクラブ的世界が残っているかもしれない。でも、キューバは遠い。限られた日数では無理だと諦めたら、沖縄が浮かんだ。日本にとっての沖縄とは、アメリカにとってのキューバなのではないか、と独断した。どちらも身近の楽園と位置づけられながら、基地がある。そんなわけで、あまりラグジュアリーじゃないホテルに泊まって、レンタカーで本島北部を回ってみるのはどうだろう。もちろん、沖縄ならではの「やちむん」をさがすという楽しみもある。ところが、出発の寸前にアメリカ軍属による事件が起こった。それも滞在予定のうるま市での出来事だった。タイミングがビミョーすぎる。
那覇から北へ走る県道58号線の景色が、10年前に訪れた時とあきらかに違って見える。街も変わったし、私も変わった。以前には気がつかなかった「軍用地、売ります、買います」という赤い看板を目撃する。えっ、軍用地って勝手に買ったり売ったりできるんだろうか。どういうことなんだ、タフ過ぎる。
ひとまず、ハンバーガーで腹ごしらえをして、若き友人の友人がやっているというアンティック・ショップに行って情報収集することにした。
ミュージシャンでもある東京出身の須藤ケンタさんが、奥さんの里である沖縄に移住して開いた「20世紀ハイツ」は、普天間基地のすぐ側の高台。もと米軍ハウスの店内には、昭和日本や古い中国、朝鮮、ヨーロッパなどの品々が所狭しと並んでいる。のっけから沖縄という島の持つ多様なカルチャーに出くわした気分だ。ところで、福岡で会ったときの陽気に酔っ払った彼が、ここではジェントルで妙におとなしい。
「コザのディープでヤバそうなバーかライブハウス行きたいんだけど」と水を向けてみた。
「コザは今や沖縄のガラパゴスだよ」と彼。やっぱりおとなしい訳じゃない。
それではと、お薦めのやちむん屋とタコライス屋、それにそば屋など無難な所を教えてもらうことにして、1963年に出版された超レアなコルビュジェ本(私用)と本チャンのパナマ帽(妻用)を買い求め、ひとまず県道58号線へ取って返した。

「やちむんの里」にある10数件の店の中でも、彼が教えてくれた窯はいちばん奥まったところにあった。陶芸家の名前は大嶺實清(おおみね じっせい)。家のたたずまいからして、いい。梅雨空に爽快な風を呼び込んだ部屋の床や棚には、作陶した器たちがテキトーに、しかしジャストな位置にちらばまっている(ヤバイ、きっと私は買うに違いない)。
それから1時間ほど、赤のボーダーシャツを着た快活な老人は、エジプト、トルコを経て今でも人を惹きつけてやまない”ペルシャン・ブルー”の釉薬の魅力について語った。それは「やちむん=壺屋=染付」という固定観念を抱いていた私に、新たな視線を感じさせてくれた。そしてその「壺屋」についても、大嶺さんは興味深い話をしてくれた。
沖縄の焼き物の代名詞でもある「壺屋焼」は、日中戦争さなかの1938年、民芸運動の人々によって「発見」された。なかでも、濱田庄司は壺屋に滞在し、その「手癖」のように純朴な絵付けの技を学ぼうとしている。そして、その際行われた濱田の講演に、絵が大好きだった大嶺少年は参加していたという。
「濱田さんの話をとても興味深く聴いたことを憶えています。ただ、ひとつだけ不満だったのは彼が琉球とはいわず、ずっとオキナワで通したことかな」。
「琉球」と「オキナワ」…どうちがうのだろう?私は、とっさにその意味を尋ねることを控えた。これは、日本に戻って自分で調べるべきことだと思った。





Monday, September 8, 2014

重いバトン。

ある日、佐賀の友人、馬場くんからSNSでメッセージが届いた。北島夫妻が主宰するperhaps galleryで、”平和と戦争について”のグループ展「きっかけのてんじ」をやるらしく、ついてはトークイヴェントでなにかしゃべってほしいという旨だった。テーマがテーマだけに、果たして自分にそんな役が勤まるのか不安だったが、以前一緒に飲んでいて、「”佐賀の乱”をやるのは君しかいない」などとけしかけた手前もあり、すぐ引き受けてしまった。
 馬場くんのオファーは、「戦争体験がない自分たち世代に向けた話を」ということだった。といっても、僕は敗戦後すぐの生まれなので、戦争中の体験はない。なので、父から聞いた話をすることにした。かれが陸軍少尉として、満州にいた頃の話だ。
 父は日本刀が好きで、戦後も趣味として何振りかの刀を(警察署から所持許可を得て)大切に保管していた。正月などは、床の間に抜き身の刀を飾り、これは誰それの刀工による名品だ、などと説明してくれた。夜には、「心が落ち着く」と言って、ひとり座敷に座り、刀を丁寧に拭いている姿を見た。一方ぼくは、少年漫画雑誌に夢中で、ゼロ戦や戦艦武蔵のプラモデル作りに熱中していた。多分、ニッポンのために戦った「勇気ある人々」の存在を、なんとなく信じていたのだろう。それと同時に、なにかで知った中国人斬首のことも、頭を離れなかった。それは、日本刀を使った「恐ろしくも勇気が必要な」ことに違いなく、「ひょっとして父もそのことに関わったのではないか」という疑問となっていった。しかし、父に直接そのことを尋ねることは出来なかった。訊いてはいけないような気がしたのだ。ようやく尋ねてみることにしたのは、漫画雑誌を読まなくなった中学生の頃。しかし父の答えはなんだか曖昧だった。彼は、そのような状況に自分が居合わせたことを認めただけだった。
 そんなモヤモヤが決着したのは、高校生になってからのこと。そろそろ話してもいい頃だと、父は思ったのだろうか、ぼくにある種の3段論法を展開した。まず、斬首は、おもに「肝試し」、つまり戦闘に必須な、ヒトをアヤメル度胸を身につけるためであること。方法は「志願もしくは命令」であり、特に志願する下位の兵隊は、昇進という恩恵を期待していること。そして、自分は当時将校であり、昇級する意思も必要も感じなかったから、見ていただけだった、ということである。それを聞いて、父が斬首に、直接には関わらなかったことに安堵した。同時に、見ていて、どんな気持ちだったかということも思ったが、訊かずじまいだった。なにか、重いバトンを渡された気がした。
 その後、老年に差し掛かった頃から、父は何度か中国へ行っている。そこで、昔知り合った中国の人たちと会ってきたらしく、水墨画などをいただき、事務所の壁にかけていた。その方面には素人の僕が見ても、あまりパッとしない出来だったが、彼はけっこう気に入っていたようだった。そんな父も亡くなってずいぶん経つ。そろそろ、水墨画を引き取りに行かなければ、と思うのだけれど。