Monday, September 8, 2014

重いバトン。

ある日、佐賀の友人、馬場くんからSNSでメッセージが届いた。北島夫妻が主宰するperhaps galleryで、”平和と戦争について”のグループ展「きっかけのてんじ」をやるらしく、ついてはトークイヴェントでなにかしゃべってほしいという旨だった。テーマがテーマだけに、果たして自分にそんな役が勤まるのか不安だったが、以前一緒に飲んでいて、「”佐賀の乱”をやるのは君しかいない」などとけしかけた手前もあり、すぐ引き受けてしまった。
 馬場くんのオファーは、「戦争体験がない自分たち世代に向けた話を」ということだった。といっても、僕は敗戦後すぐの生まれなので、戦争中の体験はない。なので、父から聞いた話をすることにした。かれが陸軍少尉として、満州にいた頃の話だ。
 父は日本刀が好きで、戦後も趣味として何振りかの刀を(警察署から所持許可を得て)大切に保管していた。正月などは、床の間に抜き身の刀を飾り、これは誰それの刀工による名品だ、などと説明してくれた。夜には、「心が落ち着く」と言って、ひとり座敷に座り、刀を丁寧に拭いている姿を見た。一方ぼくは、少年漫画雑誌に夢中で、ゼロ戦や戦艦武蔵のプラモデル作りに熱中していた。多分、ニッポンのために戦った「勇気ある人々」の存在を、なんとなく信じていたのだろう。それと同時に、なにかで知った中国人斬首のことも、頭を離れなかった。それは、日本刀を使った「恐ろしくも勇気が必要な」ことに違いなく、「ひょっとして父もそのことに関わったのではないか」という疑問となっていった。しかし、父に直接そのことを尋ねることは出来なかった。訊いてはいけないような気がしたのだ。ようやく尋ねてみることにしたのは、漫画雑誌を読まなくなった中学生の頃。しかし父の答えはなんだか曖昧だった。彼は、そのような状況に自分が居合わせたことを認めただけだった。
 そんなモヤモヤが決着したのは、高校生になってからのこと。そろそろ話してもいい頃だと、父は思ったのだろうか、ぼくにある種の3段論法を展開した。まず、斬首は、おもに「肝試し」、つまり戦闘に必須な、ヒトをアヤメル度胸を身につけるためであること。方法は「志願もしくは命令」であり、特に志願する下位の兵隊は、昇進という恩恵を期待していること。そして、自分は当時将校であり、昇級する意思も必要も感じなかったから、見ていただけだった、ということである。それを聞いて、父が斬首に、直接には関わらなかったことに安堵した。同時に、見ていて、どんな気持ちだったかということも思ったが、訊かずじまいだった。なにか、重いバトンを渡された気がした。
 その後、老年に差し掛かった頃から、父は何度か中国へ行っている。そこで、昔知り合った中国の人たちと会ってきたらしく、水墨画などをいただき、事務所の壁にかけていた。その方面には素人の僕が見ても、あまりパッとしない出来だったが、彼はけっこう気に入っていたようだった。そんな父も亡くなってずいぶん経つ。そろそろ、水墨画を引き取りに行かなければ、と思うのだけれど。

Tuesday, August 12, 2014

「センス」という言葉には「正気」という意味があったはずだ。

フィンランド内陸部にあるユバスキュラをあとにして向かったのは、西海岸に近いポリという町。車でかれこれ4時間、なだらかな丘陵地帯と白樺の林をぬって、制限速度120kmいっぱいで先を急ぐ僕らの前には、悠々と走るキャンピングカーや、後ろにボートを牽引したワーゲン、そしてノロノロ走る耕うん機。もちろん何台となく追い抜かせてもらった。日本よりちょっと小さな国土に、500万人しか住んでいない広すぎる空の下を急ぐのにはわけがある。アールトの最高傑作といわれるマイレア邸へゆくのだから。
 国道から逸れて、牧草地かと思うほど青々とした麦畑の中の並木道に入った途端、辺りの空気が変わった気がした。まもなく”Mairea”という標識があり、パーキングが見えてくる。ここからは私有地なのだろうか。車を駐めて、赤松林のゆるやかな坂道を歩き始めると、その感じがじわじわと増してくる。脇に立っている街灯はまちがいなくアールトのデザインだ。ここはたしか、木材による製紙業で財を成した人の別荘のはず。だから広大な敷地なのは当然だ。しかし壁もゲートもない。オープンである。それは、不思議なほどの開放感だった。
 ハリー・グリクセンが妻であるマイレと、祖父の別荘地に自分の家を計画したのは1938年。フィンランドはソヴィエトとの戦争を準備し、ナチス・ドイツはオーストリアを併合、日本も中国への侵略を深めていた時期だ。そんな狂気の時代に、ふたりは以前からの友人でもあったアルヴァー&アイノ・アールト夫妻に設計を任せることにしたのだ。
 建物内部に一歩足を踏み入れると、たちまち柔らかく充足した世界に包まれてしまった。ピカソやレジェ、アルプなどの作品が、つい先日ここにやって来たかのように微笑んでいる。すべてに無駄がなく、自由だ。サンルームでは様々な植物が伸びやかに葉を茂らせ、白い花が咲いている。ここは、暗い時代にありながら、友人を含めた自分たちの美意識の開花を実験し、実践する場所だったにちがいない。しかしここには、裕福さというものが持っている虚飾や華美を感じる隙がない。ガイドさんによると、建築されて70年以上たった今でも、この家は孫達によって活用されているらしい。そのせいなのか、そこここに、今でも生活している人のセンスを感じることが出来る。そういえば、「センス」という言葉には「正気」という意味があったはずだ。

Sunday, August 3, 2014

北欧の短い夏を快適に過ごすためのユーティリティ。

コエタロの実験住宅で、まず目に飛び込んできたのは、中庭に面した壁に躍動するレンガ。大小様々な赤レンガが縦や横に、平面的に、または凸凹に、表情豊かにコラージュされている。プライベートな別荘らしい自由で奔放な表現に唖然とする瞬間である。
 建築家としてのアルヴァー・アールトは1933年、コンペティションを勝ち抜き、パイミオのサナトリウムで華々しくデビューしている。当時不治の病と言われた結核の療養所を、いかにもモダンな鉄筋コンクリートで、まるで遠洋航海に出発する大型客船のようなデザインで革新した。ところが、20年後に手がけたサイナッツァロの村役場や、このコエタロなどでは、赤レンガを多用した作風に変容している。いったい、彼にどんな変化があったのだろう。
 その間アールトは、波型にうねるような曲線による独自のデザインを考案し、建築やガラス製品に反映させることに執着する。後に彼のトレードマークとなるこのオーガニックなフォルムは、湖水地方に多く存在する湖や波形からインスパイアされたといわれている。その後、フィンランドにソヴィエト軍が侵攻し、第二次世界大戦が勃発すると、彼は戦後の復興計画などを練って過ごすことになる。戦後、アメリカからの招きでMITの客員教授を務めるなどして3年ほど滞在するが、高層ビルに代表される画一的で楽観的なアメリカ型資本主義に失望したのかあっさり帰国する。そして、戦争で破壊されたフィンランドの都市復興計画に携わることになるのだが、そこで使われたのが赤レンガと木材なのである。
 「鉄やコンクリート」と「赤レンガや木材」との違いは一目瞭然だ。「硬質で冷たい」対「柔らかく暖かい」であり、「均質性」対「多様性」といってもいい。さらに、「プロダクト」と「クラフト」や、「普遍主義」と「ローカル主義」にさえ対置できるかもしれない。そんなぼくの妄想にも似た考えは、どうやらフィンランドという国がうっすらと持っている”社会主義の記憶”が、関係しているのかもしれない。
 かといって、アールト自身が、いわゆる社会主義者だったとは思えない。多分筋金入りの個人主義者だったにちがいない。さまざまな疑問を持ち、個人的な実験を重ねることで問題を内面化するということ。それは、絶え間ない社会との葛藤を、あきらめずに持続する強い気持ちがあってこそなせる技なのだから。思うに、個人主義が強い人ほど、社会主義を意識するのではないだろうか?逆に言えば、「世間主義」の人は、国家主義に馴染みやすいだろう。ソヴィエトがやった社会主義は国家主導で失敗した。そして、今世界は新自由主義という美名のもとに、国家とグローバル企業が超資本主義経済を正当化している。そこでは個人主義の視点はことごとく否定されかねない状況なのだ。ユートピアでも構わない。いまこそ、自分なりの社会主義を夢想することは、無益なことではないだろう。
 ちなみに、コエタロの実験住宅の内部は、いささかのラグジュアリー感もなく実に質素。北欧の短い夏を快適に過ごすためのユーティリティだけが、とても美しく準備されていた。

Friday, August 1, 2014

コエタロの実験住宅。

今回のフィンランドの旅の目的のひとつに、アルヴァー・アールトの建築を訪ねることがあった。最初に向かったのは、ヘルシンキから270km、フィンランド中央の湖水地帯にあるユバスキュラという街。アールトは、美しい湖と森林にかこまれ、教育や文化施設が整ったこの街で少年時代を過ごし、ヘルシンキやスウェーデンで建築を学んだ後ここに戻って、建築家としてのキャリアをスタートしている。そのため、街の中や周辺には彼の初期、そして中期の代表作が多いのだ。
 まずはアールト美術館、ユバスキュラ教育大学、労働者会館、自警団ビルなどを見学。1920年代の建物は、モダンというよりも新古典主義というのだろうか、イタリアの影響が垣間見えるようでちょっと意外だった。その後、ユバスキュラから30分ほどのセイナッツァロという村にある元役場へたどり着いたのは夜8時過ぎ。もちろん夏の北欧はまだ明るい。1952年に建てられた赤レンガ造りの代表作なのだが、幸運にもゲストルームに宿泊することが出来た。宿直室だったのか、部屋はとても狭いけど、蔦の絡まる窓からは中庭が見える。すべてがアールトの設計なのだ。ふたりで80ユーロなり。
 翌日は、役場から5kmの距離にあるムーラツァロという島にアールトが建てた夏の別荘「コエタロ」へ。今回の旅で、一番訪れたかった場所なのだ。一日一回の英語のガイドツアーに参加したのは、色々な国の人達25名ほど。僕らの他に、若い日本人が4人。あたりまえだが、この辺鄙な場所へやって来たアールト大好き達である。理由は様々かもしれないが、ここは「別荘」でもあるが、「実験住宅」であるというところもあるだろう。”モダン建築の巨匠”が、コンペティションや要請によらず建てたプライベートな作品とは、いったいどんなものなのか、そこが一番ポイントなのだから。
 おそらくサーミ系かと思われる、エキゾティックな顔立をした女性ガイドのわかりやすい英語の注意事項の説明が終わり、我々はいよいよ公道わきの集合場所から、白樺林の私有地へ一歩足を踏み入れた。そこから10分も歩けばアールトの隠れ家へと到達するというわけだ。ちょっと急な傾斜地には、人ひとりがやっとの「けもの道」が続いている。途中で、白人の男性が小さな発見をする。どうやら下草のなかにブルーベリーを見つけたらしく、口に入れている。見ると、たしかにそこここに紫色の果実があるではないか。自生する森の贈り物は、どんなウエルカム・ドリンクよりも嬉しい。みんなの顔がほころんだことは言うまでもない。ガイドブックに書いてあった言葉を思い浮かべた。
「森は人力などを必要としないが、人間にとって森は不可欠である」。
 ブルーベリーのおかげで、疲れ気味だった両の目が、なんだかスッキリした。さあ、しっかり見てやるぞ!

Tuesday, July 29, 2014

垢抜けなくても美しい。

久しぶりの買い付け旅は、昨年に続いてのフィンランド。
ヘルシンキの中央駅からレンタカーを借りて走ること一時間半。小さな村で行われるアンティック・フェアで探しものをするためにやってきた。写真はその駅のすぐそばにある郵便局の上から撮ったもの。これを見ると、はじめてこの地を訪れた10年前の印象がふいに蘇ってくる。古びた路面電車に広い道路、立ち並ぶビルディングはいかめしくて、他の北欧の国とはどこか違う雰囲気に戸惑ったことを思い出す
 それは、明らかにヨーローッパ的なデンマークやスウェーデンとは違い、今ひとつ垢抜けない街へ迷いこんだような感覚だった。そこがかえって新鮮だった。そして、これはひょっとすると「社会主義の残り香」ではないか、と自問した。日本へ帰り、すこし調べてみると、当たらずとも遠からずで、フィンランドという国の独特の立ち位置がわかってきた。
 スウェーデン王国の属領だったフィンランドは1917年、ロシア革命の混乱の中で「フィンランド社会主義労働者共和国」として独立している。つまり、一時、共産化したのである。しかし、内戦を経て反共産派が勝利すると、第二次大戦ではソヴィエトと東部のカレリア地方をめぐりたびたび戦火を交えている。戦後はソヴィエトの勢力下に置かれることになるのだが、それでも共産主義への道を選ばなかった。結果として、独自の路線で生き延びるしかない。それは資本主義でありながら、西側ベッタリにならず、ソヴィエトとの微妙な舵取りも忘れない両面外交のようなものだった。
 冷戦が終わり、グローバルな新自由主義が世界を席巻したことで、共産主義や社会主義は「過去の失敗」として完全に忘れられてしまった。たしかに、国家がコントロールする強権的統制経済に未来はないだろう。でも、いま普遍的に語られるているグローバル経済には、たくさんの不合理や矛盾が露呈していることを、僕らは知っている。フィンランドに生まれたたくさんの優れたデザインには、そんな忘れかけた理念をふと思い出させくれる瞬間がある。垢抜けなくても美しい。

Monday, June 30, 2014

モエレ体験。

      
 北海道の2日目は、札幌郊外のモエレ沼公園へ。イサム・ノグチが設計したこともあって、いつかは訪れてみたいと思っていた場所。「自然の中に”自然もどき”を作っても仕方がない」と、あえてこの不燃ゴミ処理用の埋立地だった沼を緑化するプランをイサムが立案したのは1988年。「そんな場所だからこそ、全体をひとつの彫刻作品にする意味がある」というラジカルな構想が完成をみたのは2005年、彼の死後17年を経てからだった。
 自分は果たして日本人なのか、それともアメリカ人なのかを確かめようとしたイサムは、いつも答えが見いだせなかった。ちょうどアーティストとして仕事が軌道に乗った頃に起こってしまった日米開戦。日系人の強制キャンプの不当性に抗議するため、アメリカ人としてみずから望んで入所したものの、いったん入ってしまったら日本人だからという理由で出所できないという現実を突きつけられる。そして戦後、広島の平和記念公園の斬新な設計プランを立てたものの、「おまえは原爆を落とした国の人間だから」という理由で、日本からも拒否されてしまう。
 国家というものは、いつも国籍というものを盾にして居住している人々をコントロールしようとする。でも本当に国家がアイデンティティを証明することができるのだろうか?国家に出来ることはパスポートを発行することくらいがせいぜいだと思う。
 翌日旭川で合流する手筈だった岡本夫妻とばったり出会った。予定を変更して、初のモエレ沼体験にやってきたらしい。岡本さん自身は夕張の出身で、奥さんは江戸っ子、僕は福岡生まれで、妻は下関が故郷である。同行していた友人に4人揃っての写真を撮ってもらった。それぞれがローカルなアイデンティティを持った他者たちは、イサムの世界を前にして、まるで入植したての移民のようだ。
 その夜、ホッケやホヤの塩辛で地酒をやった後、すすきのの方角へ向かい歩いていたら、大通公園で「集団的自衛権反対」の赤旗をかかげた連合のデモに出くわした。「連合」はてっきり「御用組合化」していると思っていたが、北海道ではまだ意地を見せているようだ。しばらく歩くと古本屋を見つけた。入ってみると、奥の本の山から顔を出したオヤジさんがいきなり声をかけてきたからビックリした。
「まったくカジノなんて、安倍はロクなことぁ考えないね」
なんだかうれしくなったが、話が長くなりそうだったから、藤沢周平の文庫本を買ってそそくさと外へ出た。

Saturday, June 28, 2014

ポロトコタン

        
 週一回のラジオのせいで、おいそれとは海外へ行けそうにないので、三泊四日で北海道へ行ってみることにした。
 北海道は、江戸時代まで「蝦夷地」と呼ばれていて、当時の政府である幕府によって、ほぼ無視された「未開の地」だった。当然「ニッポン」という感覚もなかった。では、明治政府が「開拓」したあとの北海道はどうなんだろう。そんな関心もあっての旅だった。
 まずは、新千歳からレンタカーで南下して、太平洋岸の白老町にあるポロコタンへ行ってみた。そこにある「アイヌ民族博物館」が、ぼくのような初心者にとって、とりあえずアイヌの文化に触れるためにはいいように思えたからだ。
 入場時にもらったパンフレットに、ポロトコタンとはアイヌ語で”大きな湖の村”という意味とある。白老(しらおい)という地名ももともとはシラウ・オ・イであり”アブが多いところ”という意味らしい。それどころか、てっきり日本名だと思っていた札幌でさえ、サッ・ポロ・ペッが元来の発音で、意味は”乾いた大きな川”、室蘭はモ・ルランで ”小さい坂”なのだそうだ。なんと、北海道の地名の80%は、先住民族の言葉であり、漢字は後から入植した和人の「当て字」ということらしい。
 美しい森と湖の間の土地に、4棟ほどのアイヌの伝統的な茅葺きの住居が再建されている。そこには興味深い様々な生活用具が展示されていて、関連したワークショップなども行われている。たまたまタイからやってきた大勢の観光客と一緒に、アイヌの歌や踊りを楽しむこともできた。そのほか、食料を保管する高床の小さな小屋、その裏手には「イヨマンテ」の儀式で天国へ帰っていったクマの頭蓋骨が残された祭壇などがひっそりと在った。博物館で一番興味深かったのはアットゥシと呼ばれる伝統的な衣服の文様だった。筒袖で和服にも似ているが、その大胆な文様が圧倒的な存在感を放っていた。それは、大昔から地球上の様々な場所にあったであろう、生命の放埒なエネルギーそのものだった。
 そんななかで、ある女性のスタッフがこんなことを語った。
「今でも、差別は残っています。だから、自分がアイヌの血を引いていることを隠すひともいます。和人の男性や女性と結婚したひとたちの子どもは、自分がそうであることを知らずにいることも多いのです」
 本などで、多少の予備知識はあったものの、面と向かってそう言われるとこたえる。自分に差別の意識が強くあるとは思わないが、まったくないともいえないような気がするからだ。たとえば、ぼくの生まれた北九州地方には、昔から多くの朝鮮系のひとが住んでいたので、小学校のクラスにはかならず何人かはいたのだが、ほとんど意識することはなかったが、本当のところはどうだったのだろう。
 差別というのは根が深い。ヒューマニズムでは乗り越えれないような気がする。多分、アイデンティティと背中合わせだからだ。だからこそ、「他者」への関心だけは失いたくないと思う。



Sunday, June 15, 2014

倶利伽羅紋々、その2。

週に2回ほどスポーツジムに通っている。時速6kmくらい、飲み過ぎた翌日は5.5kmの負荷をかけて、とにかくひたすらマシンを歩くこと40分。これで、日々のアルコールを帳消しにしようという魂胆なのだ。でも、実際、けっこう汗が出るし、結果、気分がすっきりするのは確かだ。あとは、ストレッチで体をほぐし、筋トレめいたことをするふりをして、仕上げに風呂を浴びると、トータルで2時間くらい。
 通い始めて、かれこれ20年、行くのは平日のお昼前後と決まっているから、出会う人はほとんどが定年後のオジサン、もしくは時間が自由なオバサンたちで、顔もほぼ互いにインプットしている。毎回かならず見かける人が15名以上はいる。多分その人達は、毎日通っているのだと思う。70%は女性である(この先、年寄りの、それも特に女性の平均寿命は、いったいどこまで伸び続けるのだろう)。けっこうな年寄りもいて、しばらく見かけないと「病気かな、それともひょっとすると…」などと思うこともないではないが。
 彼女たちは、たいていオシャベリだ。顔なじみを見つけては、飽きることなくアレコレ話しているのが、否応なく耳に入ってくる。最近代わったばかりのジャズ・ダンスの新人トレーナーを批評したり、孫の自慢、体の不調など、話のネタはつきない。先週、いつものようにマシンで歩いていると、隣のAおばあさんと、その隣のBおばさんが目の前のテレビ・モニターを見ながら話しているのが、耳にはいってきた。それは一見、先日終わってしまった「超国民的な番組」のような、若いタレントのたわいもないゲームを見せることで、まるで、今この国ではさしたる問題は起こっていないかのような「日常」を共有させるような番組だった。
A「あの男のコ、わたしファンだったんだけど、この前週刊誌で見たら、イレズミ入れてんだって」
B「そーお、イヤーね、あんな可愛い顔してるのに」
A「アタシ、もうファンやめちゃった」
B「そりゃそ~よね~」
 ぼくは一瞬「それって、倶利伽羅紋々かタトゥー、いったいどっちなんですか?」というツッコミを入れたい衝動に駆られたが、もちろんやめた。多分、どっちにしても、親からもらった大事な体に傷をつけるなんて、という決まり文句を持ちだされるがオチだからだ。
 倶利伽羅紋々は、他者への威嚇のため、百歩譲って護身だったりの意味だと思う。そして、最近タトゥーはカルチャーのひとつ、もしくはファッションとして若い男女に受け入れられている。だから、一方はオドロオドロしく、片方はラブリーだったりと、見た目の判断は出来る。ただ、公衆浴場では、入り口に「イレズミの方は入場おことわり」と張り紙をしているところもあって、そういう場合の判断はどうなるんだろう。前者はダメで、後者はOKなんて言えたりするんだろうか?多分、どっちもダメってところだろう。
 もうすぐ、今の政権は「集団的自衛権」にOKを出すらしい。それは、早晩、自国や同盟国を守るという理屈で、若者を戦場に送ることになる。もちろん、徴兵検査では、「倶利伽羅紋々」組も「タトゥー」組も一緒くたに合格というわけだ。

Friday, June 13, 2014

倶利伽羅紋々



国東半島で神仏の気配を感じたあと、別府の鉄輪温泉へ”立ち寄り湯”のために立ち寄ることになった。それも、一緒に行った友人のススメで、名物「蒸し湯」に初トライ。裸になると、差し出された備え付けの猿股を否応なく穿かされた。オバちゃんの指示に従って、背を屈めて低い入口から潜るようにして入ってみると、そこはものすごい熱気のムロみたいな狭い密室だった。床には、なにかの葉っぱが一面に敷かれ、室内には神秘的かつ薬効がありそうな香りが充満している。といいたいところだが、天井は低いし、熱すぎる。オバちゃんは「8分(だったか?ビミョーなタイム)経ったら、開けるけど、我慢できなくなったらいつでもノックしてね気分が悪くなる前に」と言っていたっけ。つまり、中からは開かない扉なのだ。ぼくは、まるで囚われの政治犯が灼熱地獄的拷問を受けているような気分になり、しばらく我慢したあとで、躊躇せずに小さな扉をノックした。オバちゃんが「5分やったねー」と言った。フー、まあまあ頑張ったほうだろう。しかし、事件はこれからだった。
 「さあ、あっちの温泉でゆっくり汗を流してね」、というオバちゃんの声に励まされ、背中にこびりついている”ふやけた葉っぱ”を引っ剥がして 浴室の扉をガラリと開けると、さほど広くない浴場には3人の先客がいた。いずれも二十歳代の若者らしく、一人は浴槽、一人は体を洗い中、残る一人はタイルにあ ぐらをかいて座っている。特筆すべきなのは、三人共に全身に見事な「倶利伽羅紋々」をいただいていることだった。入ったとたんに踵を返すこともならず、ぼ くは素知らぬ顔で(というのも変だが)空いていた洗い場に腰を下ろすしかなかった。
 随分前、これに似た経験をしたのは二日市温泉の公衆浴場だっ た。あいにく広い浴場の洗い場はズラリと先客がいて空いていたのはたったひとつ。しかもその両側には、見事な彫り物を入れたお二人さん。つまり、ぼくはそ の間に「おひかえなさる」しかない。特にイヤだという感じはなかったが、そそくさと体を洗ったのは言うまでもない。熱い湯に浸かったあとの妖しいばかりの 不動明王を間近に拝ませてもらったわけだ。
 今回は、狭い浴室で3対1のガチンコ勝負である。しかし、案外平静でいられたのは、彼らの陽気なおしゃべりのせいだった。湯船の男と、あぐらをかいた男の会話はこんなふうだった。
「ナニセミケツノメシハクエタタモンジャナイッスヨ(なにせ、”未決”の飯は食えたもんじゃないっすよ)」
「コンヤハスシクイテー(今夜は寿司食いてー)」
「オレジューシチノカノジョイルンスヨ。マダヤッテナインスヨ(俺、17歳の彼女いるんすよ。まだヤッてないんすよ)」
「オマエバカジャナイ(翻訳不要)」
どうやら、シャバに帰還してのひとっ風呂のようだ。
  さきに上がった彼らのあと、服に着替えて出てみると、自動販売機の前でジュースを飲んでいるくだんの3人と17歳の彼女がいた。男たちはそれぞれキャップ をかぶったり、ブランドっぽいTシャツ姿。いわゆるストリート系ファッション。街を歩いているいまどきの若者としか見えない。その後、男ふたりとアベック は、たがいに軽く挨拶を交わして全然別の方角へ歩いて去った。案外、かれらは今日はじめて風呂で出会った同士だったのかもしれない。

Monday, June 9, 2014

嬉しい姉妹店。


僕が住んでいる大橋にはもう一軒organがある。うちから歩いて5分、1階に飲食店がはいっている大きめのマンションの3階の一室で、古い電子オルガンを修理&販売している店だ。そのことを教えてくれたのはペトブルの小出さんだった。ある晩、フラッと立ち寄ったら「大橋でorganをやっている松末さんです」と紹介されて、「チェーン店みたいですね」と笑いあった。その直後だったか、彼のオルガンを使ったライブ・イヴェントがあり、僕も見に行った。機種は忘れたが、1960年代のものと思しきキッチユなプラスティックの楽器が、なんともいえない小憎らしい音をかなでていた。
 そうしたら、翌日、松末くんがライブでオルガンを弾いてくれた須藤さんと一緒に、遊びに来てくれて、近くの飲み屋でさんざん飲んだ。話はやはりオルガンのことだった。ビートルズのジョン・レノンがシェア・スタジアムで使っていたのはVOXだったとか、ザ・バンドのガース・ハドソンはイタリア製のファルフィッサだった、いや、ロウリーだった、などという話で盛り上がった。
 我が家に初めてオルガンがやってきたのは、僕が中学生だったころか。ピアノが欲しかったが無理で、たしか親戚の伯母さんの知り合いの要らなくなった年代物だったが、それでも嬉しくてしょうがなかった。でも、足踏み式のスカスカした音と、なんともユルイ反応ぶりに飽きたりず、すぐに埃をかぶってしまった。僕としては、プロコル・ハルムの『ハンブルグ』で鳴っているような、荘厳で悲しげな響きが欲しかったのだ。だから、大学でバンドを結成するときに、一年後輩の佐考くんがヤマハの電子オルガンを持っていて、プロコル・ハルムも好きで、おまけに”レズリー・スピーカー”も持っていると聞いた瞬間に彼の参加は決まった。回転するスピーカーの速度によって、音の陰影が付く魔法のような”レズリー・スピーカー”は、輸入品でとても高価、おまけに重くて、ライブのたびに大変だった。
 先週、須藤くんが東京から四国を経て、ひょっこり、なんとオートバイでやってきた。なんでも、数カ所でライブをやりながららしい。当然のように、その夜は松末くんも一緒に飲むことになり、イタリアン居酒屋の2階にあるorganへ初めてお邪魔することになった。一歩足を踏み入れると、そこはワンダーランドだった。白と黒、もしくは赤という派手なコントラストに、3オクターブくらいの小さな鍵盤が付いた、さまざまなデザインの氾濫。ディーター・ラムスがデザインしたかのような端正なスイッチ類。どのオルガンも誰かに弾いて欲しくてウズウズしているようだ。シンセサイザーや、サンプラーみたいにもっともらしい音を鳴らす優等生ではなく、なんだか曲者ぞろいのトランジスター野郎ばかり。嬉しい姉妹店だ。


Tuesday, June 3, 2014

無常感、アリマス。


福岡に戻り、「蕗の大堂」のことを少し調べてみた。国東半島は山岳密教が盛んだった場所らしい。「密教」といえば、空海や最澄が唐から持ち帰った、当時最新のカルチャー=仏教の教義のはずだ。”護摩焚き”や”曼荼羅”などという、なんだか呪術的な秘儀を含め、文字通り秘密めいた匂いがする。また「ご利益」という面が強調されたふしもある。もちろん、あらゆる宗教には「現世」がつきものなのだ。健康や安産、受験合格など私的なことから、果ては国難排除などまで、さまざまな願いをかなえてくれるか、という点が勝負の分かれ目なのである。
 高校生だったころ、ヘルマン・ヘッセの『シッダールタ』を読んだ。ストーリーはすっかり忘れてしまったが、なんだか感動した。”悟り”を求め仏陀のもとへ 赴くが、満足を得られず、あえて俗世間に戻って、すべてをあるがままに受け入れる境地に達する、というようなことだったか。これは、”禅”にも通じる「自 力」の世界で、我ら凡人には到底到達できない境地だろう。対極にあるのが浄土真宗の「他力本願」か(ただし、「他人任せのほうがなんとかなる」などという 簡単な教えではないようだけれど)。他方、密教は「自力と他力」のバランスを取った宗教といわれる。「バランス」。うーん、そこらへんのところが、六つか しい。
 大堂のわきに「笠塔婆」が3本立っている。鎌倉時代のものらしく、普段見慣れているのとは違い、とても不思議な形をしている。彫刻の ようでもあるし、地味なソットサスみたいにも見える。そこには色々なカルチャーの混交が重なって見えている。朝鮮、中国、そのさきの西域やペルシャ、エトセトラ。 3つが、大きい方から順に、なんとなく距離を置いて配置されているところもいい。無常感、アリマス。

Monday, May 19, 2014

「蕗の大堂」

 
 
その夜はコンサートに誘ってくれた娘さんの紹介で、カテリーナから車で30分ほど走ったところにある宿に泊ることになっていた。夕暮れ迫るなかを、GPS を頼りに、アップダウンを繰り返しながら人里離れた山間に分け入ってゆきながら、この辺りを含めた国東半島が、古くから仏教文化の盛んな土地だったことを 想像する。なんでも、その宿は富貴寺という有名な寺のすぐ近くにあるらしい。明日が楽しみだ。
 一夜明けてみると、あいにくの雨だった。といっても、土砂降りというわけではないし、案内板で確かめると、富貴寺はこの宿のすぐとなりである。宿で借りた傘をさし、うっそうとした竹林の坂道を抜けると、ほどなく「蕗の大堂」と呼ばれる阿弥陀堂が視界に入ってきた。大堂とはいっても、見たところ幅、奥行きは6メートルほどだろうか。その上に、素晴らしい曲線を描く瓦屋根が載っている。一目見た途端に「美しい」と直感できるサイズといえばいいのか。これまで、寺にしろ神社にしろ、国宝だなんだと言われても、さして感動したことはないのだけれど、この堂の”たたずまい”は文句なしだ。普段は開いているという扉は、雨のためか閉まっていた。中には平安時代の本尊や壁画があって、もちろん見たいには見たかったが、しっとりと濡れた緑の木立に守られるようにポツンと孤立した堂を見ただけで、なんだかすっかり満足してしまった。
 


Thursday, May 15, 2014

"sing bird concert"

4月から地元のLOVE FMで番組をやり始めた。夜8時から9時半までの放送で、”音楽と旅、ときどきデザイン”というサブタイトルを付けている。毎回、旅の話をしたり、ゲストを迎えたりと楽しくやらせて頂いている。しかし、毎週、選曲から話のネタまで、ああでもない、こうでもない、と夫婦で結構アタフタもしている。なにより、生放送なので、海外への旅行がムズカシイ。「そういう場合は収録で結構です」とも言われているが、10日ほど行くとすると、戻ってきてすぐ生放送なので、最低3週分くらいの前準備が必要となり、もっと面倒になる。だから、しばらくは近場の探索を楽しむことにしている。
 そんな折、大分県は国東半島の根っこのところである野外音楽フェスに誘われ、面白そうなので行くことにした。誘ってくれたのは、もともとorganのお客さん。一人はそのフェスを主催している「カテリーナ」という古楽器を製作している一家の娘さん。もう一人は去年、九電に就職したものの「原発問題」に疑問を持ち、半年であっさり辞めた青年。ふたりは九州大学の学友でもあり、娘さんは自慢の料理で、そして青年はあぜ道の駐車スペース案内からなにからの裏方としてボランティア参加している。
 その日は、天気晴朗なれど風強く、まったくの野外フェス日和だった。田んぼの中のこんもりとした森に母屋、庭に古楽器のアトリエがあり、演奏は風が吹き抜ける庭で行われた。庭だから、とてもアットホームだし、その周りではローカルの店がさまざまに美味しい食物を用意している。子どもたちは”鳥笛”をつくるワークショップや、田んぼでの凧揚げに夢中だ。着いた瞬間に「無理がなくて、いいな」と思った。演奏はまずアコーディオンをフューチャーしたパリっぽい音のRue de Valseから始まり、続いてシンガー・ソングライター安宅浩司の見事なスリーフィンガーのギターと唄。つい、高田渡を思い出しそうになったが、無頼度もアルコール度も低いところが今的なのだ。Baronくんはエノケンや、アメリカの古いボードビルっぽいパフォーマンスで会場を沸かせくれた。そして「カテリーナ」のMiraiさんとMaikaさんのユニットbaobabの登場。フィドルを使った演奏と唄は、ペンギン・カフェ・オーケストラにも通じるし、なによりケルト音楽の匂いがする。最後はTabula rasa。こちらもフィドルが活躍するが、アイリッシュ・トラッドがベースなので、とてもじっとしてはいられない。小さなステージの前にダンスの輪が広がる。ここでも子どもたちが王様だ。気がつけば、風の冷たさが増してきた。山の夕暮れは案外早いのだ。後ろ髪を引かれつつ、宿へ向かうことにした。

Monday, April 21, 2014

これだから、買い付けという名の旅はやめられない。


 ビクトリアの郊外の高級住宅地にあるアンティック屋を訪ねてみた。思ったとおり、イギリスの古いものが多く、残念ながら収穫なし。ただし、そこで入手したリーフレットにはバンクーバー島に存在するアンティック屋が、その数20軒くらいだったか、ザックリした手描きの地図付きで網羅してあるではないか。ただし、この島は前述したように九州とほぼ同じ面積だから、3日間の滞在では行けるところも限られる。各店の得意分野の説明を頼りに、行くべき店の住所をガーミンに登録。というわけで”雄大なカナダの自然を満喫”するはずが、その日から結局仕事モードにすり替わってしまった。もちろん異存なし。いつもそんな風なんだから。
 結局、島の南半分を走って計10軒くらいを探索できた。行ってはみたものの、3、4軒は移転していたり廃業だったりで無駄足。何年前につくったリーフレットか知らないが、観光客目当てのこの種の商売が楽でない証拠ともいえる。そして、やはり圧倒的にノスタルジックなイギリス物が多い。もちろん、お目当てのネイティブ系やイヌイットの人々の工芸品もあるにはあるが、手が伸びない。たとえばトーテムポールだが、どこでも幾つかはあるのだが、立派すぎたりチープすぎたり。もともとスーベニアなのはわかっているけど、なかなか触手が動かない。それでも、気がついたら少しづつレンタカーの後ろに荷物が溜まっていた。
 後半の4日間はフェリーでバンクーバーにもどり、市内を中心に探索するが、アンティック屋は以外に少ない。とりあえず、事前に調べていた週末のフリーマーケットへ行ってみた。アルメニア人のコミュニテイセンターが会場で、規模は小さかったけど、やはり楽しい。色んな個性を持った出店者から、モノにまつわる様々な話を聞きながら、買い付けてゆく。嬉しかったのはこの地方独特の古いバスケット。トライブによって模様に特徴がある日用品は、大切に使われた痕跡を含めて、素晴らしいパティーナを生み出している。絵のパターンには、アイヌの人々の模様と近い感覚を強く感じた。たとえば、写真のテントの左側に写っている絵がそうだけど、バリー・マギーにも通じるような気がするのは僕だけではないだろう。考えて見れば、太古からベーリング海峡をわたってアメリカ大陸へ移動したのは、モンゴロイドだったはず。今でこそ彼らは北の方からイヌイット、インディアン、インディオなどと呼ばれるが、最終的には南米大陸の果てへたどり着くという、呆れるほどの時間と距離を旅したわけだ。
 バンクーバーのダウンタウンにある「マックロード」という古本屋で、ところ狭しと積まれた本の山をかき分けて、ネイティブ・カナディアンの本を物色して表へ出て歩いていると、奇妙なアンティック屋を見つけた。ショーウィンドウ越しに、無国籍で雑多なモノたちがひしめき合っている。こういう店はハズレも多いのだが、もちろん要チェックだ。迎えてくれたのは、仙人のような白ひげをたくわえ、髪は頭にチョンマゲのように結わえたフラワーな小父さん。「気になるものがあったら、声をかけてね」と笑顔が嬉しい。すると、ところ狭しと並んだ陶器類の棚の一番下の奥にひっそりとスティグ・リンドベリと思われるハンド・ペインティングのベースを発見。早速見せてもらいたいとお願いしたら、「知ってるかい?あれは、スウェーデンの有名な陶芸家のスタジオものなんだ」と、ちょっと自慢気。値段を見ると、ご当地スウェーデンよりもリーズナブル。もちろん、ありがたくいただきました。これだから、買い付けという名の旅はやめられない。

Wednesday, April 16, 2014

缶バッジのおかげ。

空港で予約していたレンタカーを借り、まずはGPSをフェリー乗り場にセット、そこから船でバンクーバー島へ向かうことにした。地図では小さな島に見えるが、実は面積は九州とほぼ同じ。中心となるのは古いイギリスの風情を残したビクトリアという街。夕方ホテルにチェックイン。明日からの「大自然探訪」に備えて早寝するつもりが、つい、やっぱりフラフラと街へ出る。事前に調べていたアンティック街は、残念ながら5時ぐらいでぜんぶ閉まっている。気が付くと、歩いている人にアジア系の人がとても多い。あとで調べてみるとバンクーバーの人口構成は中国人、韓国人、日本人、東南アジア系を合わせると35%とのこと。したがってフォー屋もある。晩飯が決まった。長時間の旅で疲れた体に、つるつる&ズズーと染みわたるヌードルは、本当にありがたい。
 後日、バンクーバー都心から車で30分ほど走り、ブリティッシュ・コロンビア大学へ行ったみた。大学のロゴが入ったスウェットやパーカーに目がない僕が目指すのは生協。英語ではシンプルにブックストアである。ところが、あまりに広大な敷地なので迷ってしまい、歩いている東洋系の学生さんに英語で声をかけてみた。すると、自分もちょうどそっちへ向かうので、案内しましょうとのこと。お言葉に甘えて、彼と一緒に歩き出すと「どこから来たんですか」と尋ねられ、「日本です」と答えたら「では日本人ですか、ぼくもそうです」と返答され、お互いニッコリ。それから、日本語で少し話をしてみると、半年間の語学留学らしく、近くにホームステイしているとのこと。一緒にいた同じくアジア系女性もてっきり日本人と思ったら韓国人とのこと。日本にいると、ギクシャクした印象を待たされてしまう日韓関係は、ここにはなかった。
 いつ頃からか缶バッジを集め始めた。だから、僕のジャケットの胸にはたいていお気に入りのバッジが付いている。今回は、たまたま、その中でもシンプルなデザインで、多分1970年代アメリカのものを付けてカナダへ行った。”VOTE” とあるから、なにかの選挙のアピールのためだろう。”L.I.U.”は、個人の名前の略と思えないでもないが、労働組合系のパーティー(政党)のことかもしれない。今回の旅では、このバッジのおかげで、歩いていると結構声をかけられてしまった。おおむね「誰を応援してるんだ?」と話しかけてきて、僕は「さー、誰だろうね」と応え、笑顔で別れる。たったそれだけのことで、この街が気に入ってしまうっていうのは、ナイーブすぎるのだろうか。

Friday, April 11, 2014

社会や政治にコミットするタレント。

1ヶ月ほど前、友人のボサノバ奉行さんから、LOVE FMの新番組の話をいただいた。前身だった天神FMで担当していた”サウンド・アーカイブ”から早16年経っている。当時は仕事を含め、いろんなことが悪い方向に向かい、かなりクサっていた時期だった。サラリーマンらしく、自分の給料分は自分で稼がなければと、月〜金1時間の枠を、オペレーションを含めてひとりでやったけど、結果ははかばかしくなかった。スポンサーだったBEAMS、ラリアートさん、ごめんなさい。そんなこともあって、ラジオはもうないだろうと思っていただけに、嬉しくてすぐ引き受けてしまった。
 9歳で我が家にテレビがやってきたが、音楽はもっぱらラジオを通して楽しんでいた。三橋美智也からニール・セダカ、そしてビートルズが登場するくらいまで、ドーナツ盤を買うきっかけは、ほぼラジオだった。全国ネットのアメリカン・ヒットチャートはもちろん、地元のAM局も日課のようにチェックしていた。そんななかで、なぜか記憶に残っているのが前田武彦がやっていた東芝の洋楽番組。たしか夜の10時くらいだったか。マエタケさんの音楽ネタはイマイチだったけど、トークが面白かった。ソフトだけど社会の矛盾を突くようなジョークと、相手の女性アナを困らせるやり口に、青年はいたく刺激されたのだ。その彼は、テレビに進出して『ゲバゲバ90分』で人気を獲得するのだが、フジテレビの番組で「共産党バンザイ」をさけんで降板させられ、芸能界からフェードアウトしていった。ちなみに、彼はもともとタレントではなく、番組の構成や台本を手がける「放送作家」。そして、戦争中は海軍で「特攻」の訓練を受けた経験の持ち主だ。
 その『ゲバゲバ90分』といえば、大橋巨泉だろう。彼もスタートは放送作家で、ボクが初めて遭遇したのは、やはりラジオのパーソナリティとしてだった。タイトルは忘れたけど、深夜帯だったか、ジャズを紹介する番組だった。カーメン・マクレエの唱法がサラ・ヴォーンと如何に違うかってことや、落語や賭け事の話を熱心に語っていた。自分の趣味やスタイルを持っている”いい加減な大人”という感じがリアルだった。その後の彼は、ある時期芸能界に君臨し、数々の名物番組をモノするようになるのだが、やはり『イレブンPM』が忘れがたい。ぼくも、葡萄畑というバンドで、一度だけ出演したことがある。東京をはじめ、各地にライブハウスが登場し始めた頃だ。ぼくらがそんなシーンで「最も注目されているバンド」というコメントに、当日夜の放送を観てびっくり。僕らの演奏は事前に収録されてその日の夜に放映されたのだった。スタジオに朝から入り、楽器をセッテイングしたものの、その後はひたすら待機。ようやくビデオ撮りが終わったのは夕方近く。入れ替わるように、氏は例の笑いを響かせてスタジオに入ってきた。まるでオーソン・ウェルズの登場みたいに、周りのスタッフに緊張感が走った。話しかけたかったけど、できなかった。
 バンクーバーへ行くことを決めた時、巨泉氏が59歳で「セミリタイア」をして日本脱出した先がそこだったことを思い出した。彼は今、病と戦っている。社会や政治にコミットするタレントが、また日本からいなくなってしまうのだろうか。

Thursday, April 3, 2014

アップグレード

先月は、前から一度は行ってみたかったカナダ、バンクーバーへ。
それも、初のビジネスクラスである。これまでの旅行数からいえば、相当のマイルが溜まっていてもおかしくないのに、格安チケットを狙ってその都度いろいろな航空会社を選んでばかりいたので、どこも寸足らず。ある時期からコリアン・エアに絞った結果のアップグレードなのだ。当然すさまじくコンフォタブルで、9時間のフライトなのに「えっ、もう終わり?」というくらいあっという間に着いてしまった。もっと乗っていたかったくらいだ。次回からの旅行はまたエコノミーだと思うと、早くも暗澹たる気持ちになる。帰りの便でも、ゆっくりくつろぎ、映画を楽しんだはずなのに結構長く感じたのは、行きと違って12時間という、ほぼヨーロッパ便とおなじフライト時間だったからなのか。ところが、我が家にたどり着き、買い付けた1個25kgの荷物数個をヨイコラショとビルの4階まで運ぶのに、右足と腰が引きつったように違和感があって思うに任せない。もちろん、マッサージにも行ったが、1週間たってもはかばかしくない。つらつら考えるに、これはビジネスシートのせいではないか?という思いに至ってしまった。
 思い返すと、思い当たることがある。アノ、多すぎるシート調節機能である。物珍しいので「ああでもない、こうでもない」とやたらにいじくり回したのだ。いつものエコノミーの単純なリクライニングしか知らない初心者であるから、ひたすら試行錯誤を繰り返したのだ。しかし、どれが自分にとって一番コンファタブルなのかよくわからない。なにしろ、電動で背、座面、脚おのおのが、こまかく無段階コントロールできるのでその組み合わせはほぼ無限といっていい。そのうえ、さまざまな酒やワイン、カクテルも無限だ。いつも以上に酒量が増えるのは、理の当然というもの。多分、したたか酔っ払って不思議な姿勢をとったまま、コーエン兄弟の新作映画を2回リピートしつつ眠りこけたとしか思えない。やはり、窮屈さに耐えかね、ときどき離席してストレッチに励むほうが性に合っているのだろうか。

Sunday, March 9, 2014

一瞬ここはインドネシアか、

初めてのローマ。ただでさえ古い町並みの下層には、さらに古い遺跡がいっぱい眠っているので、バスで市内を走っていると「エッ、こんなところにも」という感じで、アチラコチラにローマ時代の石柱がニョキニョキと顔を出している。それに引き換え、バチカン市国は、いかにも現世の栄光を誇っているかのごとくピカピカに壮麗で、ちょっと鼻白んでしまう。コロセウムは呆れるほどのデカさで、闘技をそう呼んでイイとすれば、スポーツの大イヴェントは、昔から為政者によるかっこうの人民掌握手段だったことを思い知らされる。骨董街といわれる通りを歩いてみたが、目ぼしいものは少なく、古い版画などの紙ものやいかにもアンティークな塑像などで値も高く、ほとんど触手が伸びなかった。エンゾ・マーリやブルーノ・ムナリなど、僕が好きなイタリアン・モダン・デザインは、北のミラノの産物なのである。
 ナポリから、いよいよ南イタリアの旅が始まる。ヴェスビオ火山を遠望するナポリ湾には、まばゆい陽光が降りしきり、まさに南国の趣だ。「スパッカナポリ」と呼ばれる猥雑な旧市街には洗濯物が鈴なりで、曲がりくねった細い路地をバイクや車が走り、あちこちにゴミの山が散乱している。古い教会には、キリスト教とイスラム教が混交した独特のクラフト感を持つものも多い。旨いピッツェリアでは、ボトルで3.5ユーロというバカ旨の白ワインと、魚介類たっぷりの料理が待っているので、昼間からいい気分になってフラフラ歩くことになる。すると、ついぞ忘れていた往年のカンツォーネが自然に自分の口をついて出るではないか。中学時代にラジオから流れていたジリオラ・チンクエッティやボビー・ソロ、ナポリ民謡『帰れソレントへ』など古層のポップスたちだ。電車に乗って有名なポンペイの遺跡へ行ってみた。そこで目にした、奇跡的に残ってしまった紀元前からほぼ変わらない生々しい人間の暮らしぶりには、ただただ圧倒されるしかなかった。2000年かけて、果たして人類は進歩したと言えるのだろうか。
 ナポリからシシリアまでは一昼夜をかけてフェリーで移動。早朝パレルモ到着前に甲板に出てみると、映画『気違いピエロ』では「永遠が見つかった」はずの地中海が真っ赤な朝焼けに染まっていた。波止場に1台だけいたタクシーをつかまえて、予約していたB&Bに無事チェックイン。部屋はいい感じのアンティック家具で統一されていてここで3泊出来るのが嬉しい。街はナポリ以上に南国。椰子の木をバックにたくさんのバイクが走っているさまは、一瞬ここはインドネシアか、と錯覚するほど。

Friday, March 7, 2014

ノー・プロブレム。

シシリアのパレルモからバスに揺られて2時間、アグリジェントへたどり着いた。そこからバスを乗り換えて、急峻な坂を下ったところに「神殿の丘」がある。2月中旬とはいえ、温暖な地中海気候なので早くも白い花がまっさかり。桜かと思ったがどうやらアーモンドらしい。他にもさまざまな花が咲き乱れ、あたりは得も言われぬ芳香に満ちている。このパラダイスみたいな丘に、紀元前からのギリシャやローマの神殿群が点在しているのだ。イオニア式の石柱は、往時の姿をなんとかとどめているものもあるが、そこら中に散乱しているものが多い。そんな倒れた石柱の上に登ってみた。すると南のゆるやかな斜面の果てに海が見える。それもそのはず、さほど遠からぬ先はアフリカ大陸の北端チュニジアの岬。ギリシャやローマと戦ったカルタゴの地である。
 カルタゴとは、太古から北西アフリカに住むベルベル人が作り上げた強力な国家とある。後にイスラム化し、シェークスピアの『オセロ』ではムーア人として登場する、航海術に富み、褐色の肌をした民族である。なかでも紀元前の将軍ハンニバルは、象を先頭に大群を率い、スペインからピレネーを越え、ガリアを征服し、その後なんとアルプスを越えて今のイタリアに侵攻、ローマを脅かすほどの戦術家だったらしい。「ハンニバルがやってくるぞ!」といえば、子供は悪戯をやめるといわれるほど、ヨーロッパを脅かした人物。反面、多岐にわたって影響を与えたことを想像することが出来る。いまさらだけど、地中海をヨーロッパ世界中心にしか考えてこなかった自分を思い知らされる。
 パレルモへの帰りに乗ったバスは、僕ら以外にはアフリカ系のノッポとチビの男性がふたり。座席についてもひっきりなしにおしゃべりをしている。そのうちにノッポさんが携帯でしゃべりだした。言葉は何語なのか、まるでパトワのように飄々として聞こえるので面白いがまるでチンプンカンプン。ひとつだけ聞き取れたのは「ノープロブレム」という英語。多分トータルでは30分はしゃべり続ける間に、4、5回は使っていたから、少し込み入った話だったにちがいない。さまざまな民族が横断し、おそらくプロブレムだらけだった地中海でこそ、あえて他者に対して必要な言葉なのだ。

Tuesday, February 11, 2014

戦いとは取引が不首尾に終わった結果である。

トルコの旅の最後はイスタンブールだった。その前にはカッパドキアその他の有名な世界遺産系にも立ち寄って、それはそれなりに見物した。イスタンブールではグランバザールという、アラブ圏によくあるスークみたいな密集土産物屋での自由行動があった。ところが、ようやく思いっきり買い物ができると喜ぶわれらツアー客に、またニハットさんのアドバイスがはじまった。「みなさん、ここには定価はありません。どんどん値切ってください。ただし、日本より異常に安い値段には気をつけてください。それは、本物ではありません!」。絨毯やトルコ石やカシミヤのストールなど、それぞれお目当てがある13名に緊張が走った。適正価格ってどれくらいなんだろう?果たして、ニセモノの見分けがつくのだろうか?
 「定価」に慣れきった僕ら日本人は、値段交渉が苦手である。ぼくも、仕入れの時には仕事なので値切るくせに、自分の買い物になるとやはり中古を探すか、セールまで待つことが多い。で、今回もアンカラの近くにある”政府公認の絨毯屋”で、いかにも達者なトルコ人のオジさん相手に精一杯頑張ってはみたが、果たしてあれが適正価格だったのかどうかは自信がない。「もっと安くなったのかもしれない」とも思ってしまうが「まあ、こんなところだろう」と折れてしまった感がある。
 アラブ圏で「定価」の慣習がない理由には、売る側と買う側のどちらも「不当な利益を得ないように」というイスラムの教えが反映しているのだという。そのためには、めんどうでもお互いにとことんまで交渉する。なるほど、銀行利子さえ認めないアンチ資本主義的な考え方だなーと思う。お金まで商品とみなすデリバティブ取引の新自由主義世界に巻き込まれている我が身を思い知らされてしまう。とこらが、我ら日本人は、値段交渉以外の論争などでも、丁々発止と、最終的に納得できるまでやりあって着地点を見出すことがどうも不得手。来てみてわかったことなのだが、トルコの西側はぐるりと地中海に面している。そこは、太古の昔からヨーロッパとアジア、中近東、そしてアフリカにかけて人々が交通し、さまざまな交易をしてきた文明のクロスロードだった。人間と人間が何かを「交換」してきた生きた世界史の場所なんだと思う。それは一方的な価値観や文化が通用しない人々が交通せざるをえない場所だったのだ。「交換とは平和的に解決された戦いであり、そして戦いとは取引が不首尾に終わった結果である」とは柄谷行人さんの言葉だ。

Wednesday, February 5, 2014

『びっくりトルコ8日間』イオニアの痕跡。

「先日、アベさんがトルコに来ました」とガイドのニハットさん。もっとも、「原発売り込みのために」とは言わない。イスタンブール市内では何度も「この地下鉄工事は日本のタイセーケンセツがやっています」などと説明する。確かに、見覚えのある大手ゼネコンのマークが建築中の囲いに見える。トルコと日本の関係が良いことを言いたいのだろうが、「国家」と「資本」が一体となったグローバル資本主義の姿を見せつけられたようで別に嬉しくはない。「みなさん、今のトルコは高速道路が発達したおかげで、ツアーの時間も短縮され便利になりました」と、ツアー客へのアピールも忘れない。そのおかげか、バスはオリーブの林を抜けて快調にハイウェイを飛ばしている。
 エフェソスに近づき、まずバスを降りたのは古代ギリシャ人が建てたアルテミス神殿。今では石柱が残るだけだが、その向こうにはキリスト教会、そしてイスラムのモスクも同時に見える。ここは、紀元前1500年ころから紀元後800年くらいまで色んな変遷を経ながらも長く栄えた商業都市だった”あかし”なのだ。どちらもユダヤ教を批判しながら派生した宗教である証拠に、ユダヤ教の「アーメン」はキリスト教徒だけではなくイスラム教徒も使うと、これまた意外発言はニハットさん。本当なのだろうか。ただし、ユダヤ教は布教ということをしない宗教なので、祭祀のための壮大な教会などはここにはない。
 古代都市エフェソスは交易港だったが、いまは土が堆積してしまい、海岸線から離れた丘の周辺に大規模な遺跡群が残るだけだった。それにしても規模が大きい。これで発掘は全体のまだ10%程度だというから驚きだ。議事堂や広場、市場や浴場、そして2万人収容の劇場などを見て回った。アントニーとクレオパトラがふたりで歩いたという石畳の大通りではエリザベス・テイラーとリチャード・バートンを気取って奥さんと記念写真を撮ってみたがいまいち。僕にはおしなべてローマ帝国の威光ばかりが目立つ印象しか残らなかった。ひとつだけ面白かったのは立派な図書館(写真)と、すぐ近くの売春宿。なんと、ふたつは地下通路で通じていたらしい。「勉強で疲れた頭と体を、リラックスするためでした」とは、またまたニハットさんの迷言。もしも、暴力で強制されたわけではない女性が、貨幣との交換に男性のエントロピーを解消したのなら、イオニア時代の「無支配」の痕跡と言えないこともないか、と無理にひとりごちた。

Wednesday, January 22, 2014

自分や犬や猫を大事にすることだ。

ドイツに生まれ、その後アメリカに亡命したユダヤ人女性哲学者を描いた映画『ハンナ・アーレント』を観た。1961年、ホロコーストに関わったアドルフ・アイヒマンの裁判を傍聴した彼女は、雑誌「ニューヨーカー」に文章を寄稿する。そのなかで、アイヒマンを”特別な悪の狂信者”としてではなく「ごく普通に生きていると思い込んでいる凡庸な一般人」であるとした。そして「悪はごく普通に生きている人によって引き起こされてしまう」と言ってしまう。その結果、アイヒマンを擁護したとして「世間」から激しいバッシングを受けることになる。”普通に生きている人々”の怒りをまねいたのだ。それだけではなく、ユダヤ人自治組織(ユダヤ人評議会、ユーデンラート)の指導者が、なんと強制収容所移送に手を貸したとする事実を公表してしまう。この内部告発ともとれる行為によって、とても親しかったユダヤ人たちからも縁を切られてしまう。その時彼女に投げかけられた問いとその答えは(うろ覚えだけど)、こんなふうだった。

「いったい君はユダヤ人やイスラエルを愛しているのか?」
「わたしは一つの民族だけを愛したことはありません。愛するのは友人です」

 ナショナリズムは誰にだってあるだろう、多かれ少なかれ。しかし国家が国民にナショナリズムを要請する時には気をつけなければいけない。彼らは「戦争」をしたがっているのかもしれない。もし戦争になれば、たとえ国家は残ったとしても、人々は深く傷つく。ならばいっそ「ローカル」と言ってしまおうではないか。「国家」ではなく「社会」。「国民」というより「個人」であること。なによりも、自分や犬や猫を大事にすることだ。

Friday, January 10, 2014

『びっくりトルコ8日間』トロイの混血。

     
 パックツアーの朝は早い。初日から容赦なく5時にモーニングコール、7時に出発だ。バスに乗り込むと、すぐにトルコ人ガイドのニハットさんが待っていた。「みなさん、おはようございます。部屋に忘れ物ありませんか?パスポート、財布、携帯、旦那さん、奥さん、入れ歯、位牌…、笑い事じゃない !」。東京で1年間、国際交流基金の奨学金で留学生活を経験したとはいうものの、彼の日本語は上手すぎる。しかも話が「歴史&文化」から「政治&経済」まで多岐にわたっているから勉強になる。日本の2倍という広さのトルコのエーゲ海沿岸から中部まで、延べにすると2000キロのバス移動で、彼からいろいろなことを教わった。その中には、彼自身の意見も入っていておもしろい。ただし時々ハテナだけれど。
 イスタンブールを出発してヨーロッパ・サイドを南下、ダーダネルス海峡をフェリーで渡ること20分、我々は小アジアというか、トルコ半島、正式にはアナトリア半島に上陸、その間は泳いでも渡れるほど近い。バスはエーゲ海を右に見ながらひたすら走る。すると「みなさん、今見えている島はレスボス島といいます。ここは古代の女性詩人サッフォーが生まれた島です。彼女はここで女性だけのサロンを作り、彼女自身も同性愛者でした。ですから、女性の同性愛者をレスビアンと呼ぶようになりました」というニハットさんの解説。ぼくら全員年配のツアー客は小さく「ヘェー…」とつぶやくしかない。サッフォーって、80年代フランスの女性シンガー?のはずないが、たしかに、洋の東西を問わず、大昔から男女の同性愛は珍しくはなかったのだ。それがタブーとみなされるようになったのは、紀元後にキリスト教世界が確立してからのこと。「人類が進化すれば中間の性にいたる」という言葉もあるが、紀元前以降現在まで、その進化はさまざまな偏見の為か遅々として進んでいない。
 初めて目にするトロイの遺跡は、ほぼまだ土の中に眠ったままだった。それもそのはず、ホメロスが書いた叙事詩にある「トロイ戦争」を神話ではなく実在したと信じたあるドイツ人が1870年代に発掘するまでは、単なる丘にすぎなかった。でも土の下から9層に渡る古層や城壁らしき石塊があらわれた。その中の第6層に、明らかに火災にあった痕跡らしきものが。そう、その時期が西洋人が初めてアジア人を打ち破った「トロイ戦争」だったと想像した。事実だとすれば、西洋の歴史にとっては大発見なのだが、実証はされてはいないようだ。ところが、ニハットさんの説明はこんなふうだった。
 「トロイ戦争のあと、ギリシャ人がたくさんアナトリア半島にやってきました。でも、かわりにトルコ人もヨーロッパへ渡るようになったんです。おかげで地中海にラテン系の人々が誕生したし、ゲルマン系もそうやって混血したんです。だからトルコにはドイツ人の観光客が一番多いのです。自分たちの起源だと思っているようです」。ウーン、これは新説か、珍説か?いづれにしても、戦争という惨禍がもたらす作用のひとつに”混血”という要素があることは確かだ。

Sunday, January 5, 2014

『びっくりトルコ8日間』

去年を振り返ると、ほぼ毎月のように「短期亡命」を果たしたような気がする。もし1ヶ月以上この国にいて新聞ばかり見ていると、気がクサクサして神経衰弱になっていたにちがいない。トルコに行こうと思ったのにはいくつかワケがある。「ドイツになぜトルコ移民が多いのか」という政治っぽい理由が若干、「コルビュジェが若いころイスタンブールのアヤ・ソフィアに行った」ってことも多少。でも、直接のキッカケは新聞に載っていたツアーの広告か。『びっくりトルコ8日間』は格安、全食事付き、しかも、宿泊はすべて普段絶対泊まることがない5星ホテル。添乗員同行で、お土産物店巡り必須、自由時間は最終日の午前中だけという縛りはきつかったけど、(徴兵制にそなえて)団体生活に慣れておく必要も感じた。しかも、カッパドキアや、ボスポラス海峡クルーズ、ベリーダンス付きディナーという「ベリー・トルコ」な見どころに加え、エーゲ海沿岸にある古代遺跡群が含まれていたことが決定打となった。
 そこは紀元前にギリシャ人の一部がトルコ半島に移住してつくった「イオニア」と呼ばれていた地方なのだそうだ。柄谷行人は『哲学の起源』のなかで、そこに「イソノミア」と呼ばれる「無支配」を旨とする、自由で平等な社会が存在したと想像している。しかもそれは、その後アテネから始まったといわれる民主主義が、あらかじめ失ってしまっていたものだという。アテネの民主主義とは、実は、奴隷に労働を課すことで得た時間で、限られた数の市民と呼ばれる階級の人々が政治や戦争に参加するという、かなり歪曲した社会だったらしい。今では誰も異議を挟めない、選挙を通して選ばれた代議員が”民意を反映した政治を行う”はずの「民主主義」とは、つまるところ「多数決」の論理に陥りやすく、あのナチズムに見られるように、時として権力の暴走につながる危険性をはらんでいる。つまり、僕にとっての柄谷氏の意見は、「民主主義が、かならずしも地球社会のための最終形態ではない」という、至極まっとうな異議申立てともいえる。そういわれると、イオニアの地を、どうしても実際に踏んでみたくなるのが人情だ。
 まずはイオニアの前に、もっと昔のトロイの遺跡から僕達のツアーは始まった。 そこで見たのは、大げさにいえば、「人間が繰り返してきた”失敗”のかずかず」みたいなものだった。