Tuesday, August 12, 2014

「センス」という言葉には「正気」という意味があったはずだ。

フィンランド内陸部にあるユバスキュラをあとにして向かったのは、西海岸に近いポリという町。車でかれこれ4時間、なだらかな丘陵地帯と白樺の林をぬって、制限速度120kmいっぱいで先を急ぐ僕らの前には、悠々と走るキャンピングカーや、後ろにボートを牽引したワーゲン、そしてノロノロ走る耕うん機。もちろん何台となく追い抜かせてもらった。日本よりちょっと小さな国土に、500万人しか住んでいない広すぎる空の下を急ぐのにはわけがある。アールトの最高傑作といわれるマイレア邸へゆくのだから。
 国道から逸れて、牧草地かと思うほど青々とした麦畑の中の並木道に入った途端、辺りの空気が変わった気がした。まもなく”Mairea”という標識があり、パーキングが見えてくる。ここからは私有地なのだろうか。車を駐めて、赤松林のゆるやかな坂道を歩き始めると、その感じがじわじわと増してくる。脇に立っている街灯はまちがいなくアールトのデザインだ。ここはたしか、木材による製紙業で財を成した人の別荘のはず。だから広大な敷地なのは当然だ。しかし壁もゲートもない。オープンである。それは、不思議なほどの開放感だった。
 ハリー・グリクセンが妻であるマイレと、祖父の別荘地に自分の家を計画したのは1938年。フィンランドはソヴィエトとの戦争を準備し、ナチス・ドイツはオーストリアを併合、日本も中国への侵略を深めていた時期だ。そんな狂気の時代に、ふたりは以前からの友人でもあったアルヴァー&アイノ・アールト夫妻に設計を任せることにしたのだ。
 建物内部に一歩足を踏み入れると、たちまち柔らかく充足した世界に包まれてしまった。ピカソやレジェ、アルプなどの作品が、つい先日ここにやって来たかのように微笑んでいる。すべてに無駄がなく、自由だ。サンルームでは様々な植物が伸びやかに葉を茂らせ、白い花が咲いている。ここは、暗い時代にありながら、友人を含めた自分たちの美意識の開花を実験し、実践する場所だったにちがいない。しかしここには、裕福さというものが持っている虚飾や華美を感じる隙がない。ガイドさんによると、建築されて70年以上たった今でも、この家は孫達によって活用されているらしい。そのせいなのか、そこここに、今でも生活している人のセンスを感じることが出来る。そういえば、「センス」という言葉には「正気」という意味があったはずだ。

Sunday, August 3, 2014

北欧の短い夏を快適に過ごすためのユーティリティ。

コエタロの実験住宅で、まず目に飛び込んできたのは、中庭に面した壁に躍動するレンガ。大小様々な赤レンガが縦や横に、平面的に、または凸凹に、表情豊かにコラージュされている。プライベートな別荘らしい自由で奔放な表現に唖然とする瞬間である。
 建築家としてのアルヴァー・アールトは1933年、コンペティションを勝ち抜き、パイミオのサナトリウムで華々しくデビューしている。当時不治の病と言われた結核の療養所を、いかにもモダンな鉄筋コンクリートで、まるで遠洋航海に出発する大型客船のようなデザインで革新した。ところが、20年後に手がけたサイナッツァロの村役場や、このコエタロなどでは、赤レンガを多用した作風に変容している。いったい、彼にどんな変化があったのだろう。
 その間アールトは、波型にうねるような曲線による独自のデザインを考案し、建築やガラス製品に反映させることに執着する。後に彼のトレードマークとなるこのオーガニックなフォルムは、湖水地方に多く存在する湖や波形からインスパイアされたといわれている。その後、フィンランドにソヴィエト軍が侵攻し、第二次世界大戦が勃発すると、彼は戦後の復興計画などを練って過ごすことになる。戦後、アメリカからの招きでMITの客員教授を務めるなどして3年ほど滞在するが、高層ビルに代表される画一的で楽観的なアメリカ型資本主義に失望したのかあっさり帰国する。そして、戦争で破壊されたフィンランドの都市復興計画に携わることになるのだが、そこで使われたのが赤レンガと木材なのである。
 「鉄やコンクリート」と「赤レンガや木材」との違いは一目瞭然だ。「硬質で冷たい」対「柔らかく暖かい」であり、「均質性」対「多様性」といってもいい。さらに、「プロダクト」と「クラフト」や、「普遍主義」と「ローカル主義」にさえ対置できるかもしれない。そんなぼくの妄想にも似た考えは、どうやらフィンランドという国がうっすらと持っている”社会主義の記憶”が、関係しているのかもしれない。
 かといって、アールト自身が、いわゆる社会主義者だったとは思えない。多分筋金入りの個人主義者だったにちがいない。さまざまな疑問を持ち、個人的な実験を重ねることで問題を内面化するということ。それは、絶え間ない社会との葛藤を、あきらめずに持続する強い気持ちがあってこそなせる技なのだから。思うに、個人主義が強い人ほど、社会主義を意識するのではないだろうか?逆に言えば、「世間主義」の人は、国家主義に馴染みやすいだろう。ソヴィエトがやった社会主義は国家主導で失敗した。そして、今世界は新自由主義という美名のもとに、国家とグローバル企業が超資本主義経済を正当化している。そこでは個人主義の視点はことごとく否定されかねない状況なのだ。ユートピアでも構わない。いまこそ、自分なりの社会主義を夢想することは、無益なことではないだろう。
 ちなみに、コエタロの実験住宅の内部は、いささかのラグジュアリー感もなく実に質素。北欧の短い夏を快適に過ごすためのユーティリティだけが、とても美しく準備されていた。

Friday, August 1, 2014

コエタロの実験住宅。

今回のフィンランドの旅の目的のひとつに、アルヴァー・アールトの建築を訪ねることがあった。最初に向かったのは、ヘルシンキから270km、フィンランド中央の湖水地帯にあるユバスキュラという街。アールトは、美しい湖と森林にかこまれ、教育や文化施設が整ったこの街で少年時代を過ごし、ヘルシンキやスウェーデンで建築を学んだ後ここに戻って、建築家としてのキャリアをスタートしている。そのため、街の中や周辺には彼の初期、そして中期の代表作が多いのだ。
 まずはアールト美術館、ユバスキュラ教育大学、労働者会館、自警団ビルなどを見学。1920年代の建物は、モダンというよりも新古典主義というのだろうか、イタリアの影響が垣間見えるようでちょっと意外だった。その後、ユバスキュラから30分ほどのセイナッツァロという村にある元役場へたどり着いたのは夜8時過ぎ。もちろん夏の北欧はまだ明るい。1952年に建てられた赤レンガ造りの代表作なのだが、幸運にもゲストルームに宿泊することが出来た。宿直室だったのか、部屋はとても狭いけど、蔦の絡まる窓からは中庭が見える。すべてがアールトの設計なのだ。ふたりで80ユーロなり。
 翌日は、役場から5kmの距離にあるムーラツァロという島にアールトが建てた夏の別荘「コエタロ」へ。今回の旅で、一番訪れたかった場所なのだ。一日一回の英語のガイドツアーに参加したのは、色々な国の人達25名ほど。僕らの他に、若い日本人が4人。あたりまえだが、この辺鄙な場所へやって来たアールト大好き達である。理由は様々かもしれないが、ここは「別荘」でもあるが、「実験住宅」であるというところもあるだろう。”モダン建築の巨匠”が、コンペティションや要請によらず建てたプライベートな作品とは、いったいどんなものなのか、そこが一番ポイントなのだから。
 おそらくサーミ系かと思われる、エキゾティックな顔立をした女性ガイドのわかりやすい英語の注意事項の説明が終わり、我々はいよいよ公道わきの集合場所から、白樺林の私有地へ一歩足を踏み入れた。そこから10分も歩けばアールトの隠れ家へと到達するというわけだ。ちょっと急な傾斜地には、人ひとりがやっとの「けもの道」が続いている。途中で、白人の男性が小さな発見をする。どうやら下草のなかにブルーベリーを見つけたらしく、口に入れている。見ると、たしかにそこここに紫色の果実があるではないか。自生する森の贈り物は、どんなウエルカム・ドリンクよりも嬉しい。みんなの顔がほころんだことは言うまでもない。ガイドブックに書いてあった言葉を思い浮かべた。
「森は人力などを必要としないが、人間にとって森は不可欠である」。
 ブルーベリーのおかげで、疲れ気味だった両の目が、なんだかスッキリした。さあ、しっかり見てやるぞ!