Sunday, June 12, 2016

オキナワへ行って、琉球をさがす、その一。

キューバに行きたいと思った。アメリカナイズされてしまう前の今なら、あのブエナビスタ・ソーシャルクラブ的世界が残っているかもしれない。でも、キューバは遠い。限られた日数では無理だと諦めたら、沖縄が浮かんだ。日本にとっての沖縄とは、アメリカにとってのキューバなのではないか、と独断した。どちらも身近の楽園と位置づけられながら、基地がある。そんなわけで、あまりラグジュアリーじゃないホテルに泊まって、レンタカーで本島北部を回ってみるのはどうだろう。もちろん、沖縄ならではの「やちむん」をさがすという楽しみもある。ところが、出発の寸前にアメリカ軍属による事件が起こった。それも滞在予定のうるま市での出来事だった。タイミングがビミョーすぎる。
那覇から北へ走る県道58号線の景色が、10年前に訪れた時とあきらかに違って見える。街も変わったし、私も変わった。以前には気がつかなかった「軍用地、売ります、買います」という赤い看板を目撃する。えっ、軍用地って勝手に買ったり売ったりできるんだろうか。どういうことなんだ、タフ過ぎる。
ひとまず、ハンバーガーで腹ごしらえをして、若き友人の友人がやっているというアンティック・ショップに行って情報収集することにした。
ミュージシャンでもある東京出身の須藤ケンタさんが、奥さんの里である沖縄に移住して開いた「20世紀ハイツ」は、普天間基地のすぐ側の高台。もと米軍ハウスの店内には、昭和日本や古い中国、朝鮮、ヨーロッパなどの品々が所狭しと並んでいる。のっけから沖縄という島の持つ多様なカルチャーに出くわした気分だ。ところで、福岡で会ったときの陽気に酔っ払った彼が、ここではジェントルで妙におとなしい。
「コザのディープでヤバそうなバーかライブハウス行きたいんだけど」と水を向けてみた。
「コザは今や沖縄のガラパゴスだよ」と彼。やっぱりおとなしい訳じゃない。
それではと、お薦めのやちむん屋とタコライス屋、それにそば屋など無難な所を教えてもらうことにして、1963年に出版された超レアなコルビュジェ本(私用)と本チャンのパナマ帽(妻用)を買い求め、ひとまず県道58号線へ取って返した。

「やちむんの里」にある10数件の店の中でも、彼が教えてくれた窯はいちばん奥まったところにあった。陶芸家の名前は大嶺實清(おおみね じっせい)。家のたたずまいからして、いい。梅雨空に爽快な風を呼び込んだ部屋の床や棚には、作陶した器たちがテキトーに、しかしジャストな位置にちらばまっている(ヤバイ、きっと私は買うに違いない)。
それから1時間ほど、赤のボーダーシャツを着た快活な老人は、エジプト、トルコを経て今でも人を惹きつけてやまない”ペルシャン・ブルー”の釉薬の魅力について語った。それは「やちむん=壺屋=染付」という固定観念を抱いていた私に、新たな視線を感じさせてくれた。そしてその「壺屋」についても、大嶺さんは興味深い話をしてくれた。
沖縄の焼き物の代名詞でもある「壺屋焼」は、日中戦争さなかの1938年、民芸運動の人々によって「発見」された。なかでも、濱田庄司は壺屋に滞在し、その「手癖」のように純朴な絵付けの技を学ぼうとしている。そして、その際行われた濱田の講演に、絵が大好きだった大嶺少年は参加していたという。
「濱田さんの話をとても興味深く聴いたことを憶えています。ただ、ひとつだけ不満だったのは彼が琉球とはいわず、ずっとオキナワで通したことかな」。
「琉球」と「オキナワ」…どうちがうのだろう?私は、とっさにその意味を尋ねることを控えた。これは、日本に戻って自分で調べるべきことだと思った。