Saturday, November 26, 2016

中欧は民族の臨界点なのだ。


 チェコとウィーンにやって来たのは、モダニズム寸前のムーヴメントを感じてみたかったから。その中心にいたのがアドルフ・ロースという建築家らしい。彼はオーストリアの人だが、チェコのプラハには代表作の一つである<ミュラー邸>があるし、ウィーンには<ロース・ハウス>がある。ここらへんはハプスブルク王国だったわけだ。写真で見る限り、老けたブライアン・フェリーにそっくり。つまり悲しくダンディな顔である。
 ロースは著作のなかで「装飾は犯罪である」と言ってのけ、当時のヨーロッパ建築界をおどろかせた。1908年だから、コルビュジェの「住宅は住むための機械である」発言の14年前のこと(ちなみにコルビュジェは、ロースに触発されたと語っている)。ふたりの着眼点は似ているが、ロースのほうがより直接的な表現だけに反発も大きかったようだ。プラハもウィーンも神聖ローマ帝国の首都だった街。権威的で御大層な装飾だらけの宮殿や教会などが立ち並んでいることこそが”ウリ”だと信じて疑わない人々の反感を買ったのだ。実際、<ロース・ハウス>は装飾がないという理由で建築許可が降りなかったという。これに対して、窓にプランターを付けることで許可を取ったらしい。ロースという人はウィットの持ち主でもあったようだ。
 このロース・ハウス、今見ると特にモダンというわけでもなく、どちらかといえば端正でクラシカルなたたずまいで、まわりとそんなに違和感がない。エッフェル塔もそうだけど、建設当時にはケンケンガクガクでも、時間が経つと馴染んでしまうのは、人のほうが「経年変化」するからだろう。
 一方、ミュラー邸はといえば、外見はかなりモダンだが、一歩内部に入るとなかなかどうして凝っている。後日調べてみると建築用語で「ラウムプラン」と呼ぶらしく、部屋ごとに段差をつけることで連続的に構成した空間なのだ。1階大理石の比較的広いラウンジは主人と来客が主役、半階上にはご婦人方専用のこじんまりしたティールーム、その他さまざまな用途の部屋が、ひとが移動するに連れて忍者屋敷のように現れる。そして一番上のバルコニーへ通じるとっておきの部屋は、なんと日本風エキゾ!その東洋趣味の部屋で突然ガイドさんから「あなたにはこの部屋は、日本、それとも中国、どちらに見えますか?」と参加者中唯一のジャパニーズに質問を浴びせる。一瞬答えに窮したが、素直に「どちらにも見えない」と答えた。ぼくには金持ちの”風流趣味”にしか見えない。個人の趣向やライフスタイルを反映したまでで、装飾じゃないというわけか。
 若くしてアメリカへ渡り、シカゴの高層ビルを見て影響を受けたロースは、旧弊なヨーロッパと、工業化で資本主義の道を独走するアメリカとの差に驚いただろう。王権や教会の権威とは無縁の市民社会の急速な発展は、プラグマティックで自由な新興ブルジョワジーの住宅建築でモダニズムへの道を開いたのだ。<ミュラー邸>はその一例なのだろう。ゴシックでもバロックでもビクトリアンでもなければ、アール・ヌーヴォーでもない。時流に乗って流行を取り入れるという「ポピュリズム」への異議申し立てだったのだろうか。でも、”ジャポニズム”って当時の流行じゃなかったっけ?
 アドルフ・ロースの友人にルートウィッヒ・ウィトゲンシュタインがいる。柄谷行人の著作の中で何度も言及された哲学者で、寡聞にしてよく知らないが、変わり者だったようで、デビッド・バーンに似た深刻そうなルックスを含め、気になる人。今回一瞬だったけど訪れたのは、そんな哲学者がロースの弟子と一緒に姉のために設計した住宅。現在はブルガリア大使館の文化施設となっているのだが、外部も内部もモダンをすっ飛ばして恐ろしく無装飾。松岡正剛によると、ウィトゲンシュタインは「わたくしの言語の限界が、わたくしの世界の限界を意味する」と結論した人らしい。背の高いガラス窓だらけで、しかもカーテンさえ付けないというミニマリズムは、ほんとうにここに人が住んでいたんだろうかと思わせるほど限界的に素っ気ない。そういえば、受付の若い女性の受け答えもクールだった。ゲルマン人の冷静さかな。
 蛇足だが、ウィトゲンシュタインとヒットラーは小学校で同級生だったらしい。駄蛇足だが、ウィトゲンシュタインはユダヤ系、ロースはゲルマン系、中欧は民族の臨界点なのだ。

Saturday, November 19, 2016

社会主義の乗り物食べ物。

プラハでの4日間は、地下鉄とトラムを楽しんだ。ヘルシンキもそうだけど、トラムの走る街はホッとする。レトロな車両が最新型に混じってまだまだ現役で走り回っている風景を見ると、ヨーロッパに来たんだなー、と思ってしまう。町並みを眺めながら乗っていて、ふとアンティック屋が目に入ると、思わず途中下車してしまう。遠距離だと地下鉄を使うしかないけど、地下鉄は景色が見えないので、方向感覚がなくなり、地上に出た時に一体全体どっちに向かえばいいのかわからず、けっこう往生する。
 プラハの地下鉄はフューチャリステイックだ。かなりの深さにあるようで、エスカレーターがやたらに長く、急角度で一気に異界まで連れて行かれそうでマジ怖い。スピードだって日本のに比べるとかなり高速だ。エイヤッっと飛び乗り、手すりにつかまり、着地点ではすばやく飛び降りることが肝要なのだ。で、地底に到達したら、目の前にまるでスタンリー・キューブリックの映画のような世界が待っているから驚いた。
 チェコは、ソ連が進めた東欧諸国の共産主義化の影響下、「プラハの春」などで民主化への運動も盛んだったわけで、中庸的な社会主義を目指した国だったのだろう。このSF的な地下鉄の光景には、そんな社会主義のインフラ整備力を見せつけられる。まあ今となっては共産主義の夢の果て、という感が無きにしもあらずだけれど。
 話は変わるけど、博多駅の陥没事故の復旧は素早かった。メディアは「素晴らしい日本の技術力」などと自賛するが、けが人が出なかったのはとてもラッキーだったわけで、事故原因の検証はキチンとなされるのかな。「日本一住みやすい街FUKUOKAのさらなる発展」などと、経済発展を優先するのではなく、社会資本としてのインフラには市民も参加するシステムが必要ではないだろうか。
 
もうひとつチェコの社会主義の名残といえば大衆食堂だ。観光地なのに格安、ただしセルフサービス。豚のシチューやカツレツ、ソーセージにザワークラウトなどの他に、よくわからない地味な料理がイッパイ並んでいる。いわば学食のように、おばさんに「コレ」と指差しで注文するから楽である。味の方は、まずくはないけど、といったところ。ここは、大賑わいの大聖堂のすぐ近くの路地にあるのだが、観光客よりもっぱら地元のひとで賑わっている。なかには、修学旅行生らしき一団が並んでいたりもする。多分、「昔はこんな食堂ばかりだったのです」という社会科の見学なのかもしれない。実際、観光客向けの「共産主義ツアー」をプラハに限らず、旧共産圏だった都市でけっこう見かける。”レーニンが隠れていた部屋”なんて、見てみたいと思わないでもないけど。
 

Saturday, November 12, 2016

一瞬だけ花開いた建築とデザインのムーヴメント。

プラハの街を歩きながら「ここはチェコスロバキアではないゾ」と自分に言い聞かせた。東京オリンピックで、しなやかな肢体と優雅な笑顔で日本中を沸かせた”体操の名花”チャスラフスカは、とっくの昔の話だ。「鉄のカーテン」はなくなり、スロバキアは別の国となった。元祖ヒッピーとも言える、放浪の民=ボヘミアンを生んだチェコという国にやってきたんだってば。
 ヨーロッパの主要な街がそうであるように、プラハにもモルダウ川という河が中央を流れている。それを挟んで西には14世紀以来、神聖ローマ帝国の首都だったプラハ城がそびえ、東には旧市街が広がっていて、そういわれればローマっぽいかも。街中にはロマネスクからゴシック、ルネサンスにバロックと様々な時代の建築物が残っていて、建築好きにはたまらないのだそうだが、ぼくには関係ない。目指すのは「チェコ・キュビズム」。20世紀初頭に一瞬だけ花開いた建築とデザインのムーヴメントだ

 まずは1912年に設計された「ブラック・マドンナ」という4層のビルへ。名前からして、挑戦的ではないか。3,4階は「キュビズム美術館」。ギクシャクとした脚や、幾何学的な形をした家具や椅子などが並んでいる。ウーンかなり変だ。とはいっても完成度は高く、ちゃんと座れるし、機能する。精緻な作りには、この地の職人技が生かされているし、絵画にはジョセフ・チャペックなど、新しい芸術運動を起こそうとした当時の気運が感じられる。「キュビズム」というネーミングこそピカソの影響かもしれないが、「チェコ・キュビズム」には建築や家具などを通し、成熟した市民社会感覚から生まれた、独自の実験性があってかなり楽しめた。そのうえ、ビルの1階には、その名も「Kubista」というショップがあって、日本ではなかなかお目にかかれない本や陶器などを買い付けてくたびれる。なので、2階にあるキュビズム様式のカフェで休憩。
 
 
 さていよいよ建築めぐり。まずモルダウ川に添っていくつかのキュビズム建築を見る。でも、風景に馴染んでいるからか、そう言われなければ見過ごしたかもしれないな。しかし、1913年にヨゼフ・ホホルが手がけた集合住宅はさすがにカッコ良かった。傾斜した鋭角的な角地という立地を利用したアパートメントは、まるでボヘミアン・グラスのようにエッジーだ。ここには曲線だらけのアール・ヌーヴォーから、直線を使ったアールデコの装飾性への決別がある。いわばモダニズム直前のシンプルネスというわけだ。しかし、残念ながらその後のチェコ・キュビズムは、「ロンド・キュビズム」といわれるゴテゴテとした装飾性へ逆行することになってしまい、その革新性は歴史の中に埋没することになる。まあ、その後モダニズムがユニヴァーサルになった後、「ポスト・モダン」という名前で再登板することになるのだけど...。